韓国強制併合100年、植民地支配の責任を考える


by 1910822

1894,95年日本帝国の侵略の場・景福宮 

1894,95年日本帝国の侵略の場・景福宮 修復と「復元」権力者不在の「宮殿」の現在

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香遠亭 ヒャンウォンジョンHyangwonjeong
 1867年、高宗が乾清宮(コンチョングン)を建てる。その際に池を掘ったとのこと。橋は酔香橋(チィヒャンギョ)と命名。池の西北の淵から撮影。

以下の画像景福宮内の撮影は2010年7月26日。


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閔妃殺害事件

閔妃殺害事件、三浦梧桜に殺害を教唆された予審の48人 2009年10月31日アップより抜粋・リンク

予審終結決定書の概略
「岡本柳之助外四十七名に対する謀殺及兇徒聚衆事件平山岩彦に対する故殺事件等検事の請求に依り予審を遂くる処

被告三浦梧桜大院君時弊を憤慨し自ら起て宮中を革新し輔翼の任を尽さんと欲するの意を致し陰に助力を求め来りたるより

同年十月三日被告杉村岡本と公使館に会し三名謀議の上……略、

訓練隊と時勢を憤慨する壮年輩を利用し暗に我京城の守備隊をも之に声援せしめ以て大院君の入闕を援け、略、宮中に在て最も権勢を擅にする王后陛下を殪さんと決意したり……」

「杉村と要項四と題する約款を起草し被告岡本は大院君と親善なるを以て之を携え同月五日孔徳里の別邸に赴き方今の形勢再び太公を煩わすものあらん…略」

被告三浦梧桜被告杉村は協議の上同夜事を挙ぐるに決し直ちに電信を以て柳之助の帰京を促し一面は被告堀口九万一に大院君入闕に関する方略書を授け…略」
略<三浦の守備隊への声援要請>

「又被告安達謙蔵国友重章を公使館に招致し其知人を糾合して竜山に柳之助と会し共に大院君入闕の護衛を為す可き事を委嘱し且当国二十年来の禍根を断つは実に一挙にありとの決意を示し入闕の際王后陛下を殺害すべき旨を教唆し被告萩原秀次郎には部下の巡査を引率し柳之助と協議し大院君の入闕に付尽力すべき旨を命じ…略」
「被告謙蔵重章の両人は被告梧桜の教唆に応じ王后陛下を殺害せんと決意して同志者の招集に尽力…略」

<被告20数人の名前が挙げられる>
「大院君入闕に付三浦公使の命に依り被告謙蔵章が其護衛者を募る由を聞き之に同意し其内被告岩彦外十数名は被告謙蔵重章等より王后陛下を殺害すべき被告梧桜の教唆を伝えられ各殺意を決し其他右等の事実を知らす一時の好奇心に駆られ附和せし者に至る迄各凶器を携え…略」

「一同は柳之助を総指揮者とし…略…翌八日午前三時頃大院君の轎輿を擁して出発したり而して被告柳之助は其際表門前に一同を集め入場の上狐は臨機処分すべしと号令し以て王后陛下殺害の事を教唆し未だ其事実を知らさりし被告益太郎外数名をして殺意を決せしめ夫より京城に向い徐々前進し西大門外に於て訓練隊に出逢い…略」

「同所より訓練隊を前衛とし王城に急進する途中被告重章光烈盛熊鉄加藤次も相加り又被告蓮元泰丸大浦茂彦は馬屋原努本より通弁の為め訓練隊監視の陸軍士官に随行を委嘱せられ

亦此一行に加り同日払暁の頃光化門より一同王城に入り直に後宮まで抵りたる等の事実あり

といえども前記の被告人中犯罪を実行したるものありと認むべき証憑十分ならず

又被告平山岩彦が右入城の際乾清宮前に於て宮内府大臣李耕植を殺害したりとの事も亦其証憑十分ならず被告柴四朗、大崎正吉、武田範治、前田俊蔵、平山勝熊、白石由太郎は本案被告事件に関係せりと認むべき証憑十分ならず

以上の理由なるを以て刑事訴訟法第百六十五条に従い各被告人総て免訴し且被告三浦梧桜、杉村、岡本柳之助、安達謙蔵、国友重章、寺崎泰吉、平山岩彦、中村楯雄、藤勝顕、家入嘉吉、木脇祐則、境益太郎は各放免す」
「明治二十九年一月二十日、予審判事 吉岡美秀」



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閔妃を虐殺した場⇧

蓮池の畔
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乾清宮
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画像 奥の緑が「鹿山」
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図の線は三浦梧桜以下外交官、外務省巡査、日本軍人、民間人が光化門から入り侵入した経路

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2010年8月15日に復元された光化門
撮影は2010年8月30日
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閔妃殺害事件、与謝野鉄幹の「関与」 

                               2009年10月27日      
真相究明未だされず
 日本政府による真相究明が未だされていないことは大きな問題であり、韓国の前政権のもとで発足した委員会、「真実と和解のための過去事整理委員会」が甲午農民戦争時の真相究明をも含め近代の歴史を対象としていることと大きな違いがある。

 また韓国マスコミが事件の起きた10月8日前後に記事にしているが、公使であった「三浦悟桜が殺害」と大まかな記述が目につく。

 日本政府が真相究明を放棄していることが根本原因であるが、未解明な部分を確定的に記述すると真相解明に至らずかえって妨げになるのではないか。

 予審に起訴された48人のリストアップ、与謝野鉄幹の関与状況に触れても真相究明にはほど遠い。しかしこれまで未見の文献では不明であるが、二次文献で48人全員の名を挙げているものがない。

 一次史料翻刻の市川正明編『韓国王妃殺害事件』掲載の「予審終結決定書」に記載されている名を挙げることは「真相」究明に向けた端緒になるだろう。

1895年10月27日
 後に歌人として著名になる与謝野鉄幹の関わりも従来、本人の回想を基に「鉄幹が事件に関与」あるいは「殺害に関与」していたという情報が流通しているが、現時点では本人の回想以外に傍証は見つからず関与の度合いは不明である。            
 
 114年前の10月27日はその与謝野鉄幹が韓国から「逃亡」した日になる。日本政府は事件後から下旬までに王宮乱入をした48人を韓国社会から遠ざけた。証拠隠滅や関与の隠蔽を図る目的もあったのか「退韓」処分の名目で「帰国」させ日本政府の「監視下」においた。
 
領事、内田定槌の報告書
 外務省外交史料館の「韓国王妃殺害事件」のファイルには詳細な領事館からのリアルタイムの報告が綴られている。
 その綴りの一つに「朝鮮京城領事館」と赤色罫紙の真中に印刷され、内田領事の直筆と推測できるが整った筆遣いで墨書きされ<『朝鮮王妃殺害と日本人』で金文子さんは「毛筆細字でびっしりと書かれた」と紹介しているが実際は読みやすい角張ったゴシック文字のような文字>

 最後の署名の上には朱肉で角印がくっきりと押され複写ではなくオリジナル一通の原本であることを示している。

 金文子さんは同書の終章の 359頁で<本事件を「歴史上 古今未曾有の凶悪」事件であると外務省に報告した京城領事内田定槌でさえも、>と著している。

 原文の最後部を略さず引用すると
<「今回は計らずも意外の辺に意外の事を企つる者有之独り壮士輩のみならず数多の良民及安寧秩序を維持すべき任務を有する当領事館員及守備隊迄を煽動して歴史上古今未曾有の兇悪を行うに至りたるは我帝国の為め実に残念至極なる次第に御座候別紙本件に関する証憑書類及電信往復(本省の分は除く)相添此段及具報候、敬具、明治二十八年十一月五日、在京城一等領事、内田定槌>との文言である。

 内田は「我帝国の為め」すなわち天皇国家の為に嘆き 「歴史上古今未曾有の兇悪を行うに至りたる」と評価をしたのである。

史料翻刻と研究
 これらの史料は『日本外交文書』28巻や『日韓外交史料5 韓国王妃殺害事件 』 市川正明編、1981年、原書房から翻刻され、ほとんどの文書は活字で読むことは可能であり「日本外交文書」は外務省のウェブサイトでアップされている。しかし翻刻で整えられた活字を追うのと異なり原本閲覧では作成をした当事者の息づかいまでが伝わって来る。

 当時、青森大教員の市川が1981年に編集した上記の史料集は研究にかかせない一次史料の翻刻文献であり、なおかつ「解説」で三浦梧桜の事件の「真相隠蔽」「首謀者」ということを顥かにしている。<山辺は1966年に先行して一部史料を引用し追及をしている>。

 内田領事の11月5日付け西園寺外務大臣臨時代理宛「明治二十八年十月八日王城事変顛末報告の件」と題された報告書は自身の「事件」への感想を含め添付の書類が綴じられている。

 それらとは別に10月の中旬、17日の公使三浦の解任・召還を始めとして領事館関係者、民間の「退韓処分」の動向が乗船名を含め家族、使用人の同行も含めて日帝本国外務省へ報告がされている。

与謝野鉄幹の「逃亡」
 10月27日付けでは関与をした領事館職員が乗船した船便が「住之江丸」と報告され、その中に「堀口九万一従者ヨサノテツ」と記された箇所がある。
 この「従者ヨサノテツ」は与謝野鉄幹と断定できる。

 与謝野鉄幹は1885年に朝鮮に深く関わりをもっていた。同年に『二六新報』の記者をやめ、日本の生活を離れ京城に赴き日本領事館に仮寓をしていた。そして小学校に相当する乙未義塾の一つを任されたという。
 10月8日に起きた朝鮮王妃殺害事件に「関与をした」と後年に自らの関わりを自慢げに回想している。(「沙上の言葉四」『明星』一九二四年十月)

「此冬の十月八日に起こった閔妃事件と言うものが、その最初は堀口君と槐園君とが漢城病院の自分の枕頭で一所に計画した事であった」と計画の発端に関与したことを語り、続けて「しかし十月八日の夜の劇的光景には槐園君と自分とは参加しなかった。実は11月上旬に大事を挙ぐる予定であったから、両人は木浦に旅行して居た」
と予定より決行が早まったのが原因で参加は出来なかったことを語る。

「関係の日本人は悉く広島の裁判所へ御用船で護送される事になった」と事件後の状況を説明「自分はわざと嫌疑を避くるために自ら求めて堀口君と同じ船で広島へ護送されて来たが、予審判事の調べで当夜王宮へ入らなかった事が明白になったので直ぐに釈放された」と自身の振る舞いをつまびらかにしている。
 あくまでも「退韓」処分ではなく自分で船に乗ったのである。

 先の「ヨサノテツ」が記された27日の報告文以降、住之江丸に関しては10月30日付け寺内大将宛の電信が同じく外務書史料に残されている。《住ノ江丸乗船退韓者氏名報告の件》
「退韓者三十名の内令状執行を受くるもの」が13名とあり、堀口九萬一も含まれている。しかし「ヨサノテツ」あるいは「与謝野鉄幹」の名は無く、 「関係無き者……として平民三(乗船をしたのが平民三人の意味)」と記されている。さらに鉄幹の名は予審関係の史料でも見いだされない。

木浦滞在の「アリバイ」
 槐園は鉄幹の師、歌人落合直文の実弟、鮎貝房之進である。堀口君とは前述の堀口九萬一であり詩人堀口大学は子息になる。
 槐園こと鮎貝房之進は韓国に残留していた。11月1日付けで廣島地裁吉岡予審判事から参考人訊問の対象として照会、訊問対象となり6日付けで内田領事宛に「謀殺及兇徒宗聚衆事件」の証人(或は参考人)に関しての訊問事項が送られている。「在京城住処不詳、元乙未義塾教員」とされている。

 それに対し領事内田定槌は「同人は過般王城事変以前より当国全羅道木浦地方へ旅行の侭」と京城に戻っていないことを報告、戻ってから訊問をすると回答をしている。鮎貝の名を出したのは与謝野鉄幹の可能性がある。自分のアリバイ証明のために友の名を挙げたのであろう。

与謝野鉄幹の責任                                           
 鉄幹が回想した「閔妃事件と言うものが、その最初は堀口君と槐園君とが漢城病院の自分の枕頭で一所に計画した事」は、公使三浦梧桜を首謀とした計画の一環ではないだろう。

 いくら何でも入院中の枕頭で全体像が描かれるわけがない。堀口は公使館からの参加者のキーパーソンであるが鮎貝は民間人側の中心人物とはいえない。

 鉄幹は実際以上に自分の「関与」を大きく見せようとしたのか、回想時には歌壇で一定の業績を果たし、彼の生涯で晩年の時期である。自己宣伝は必要ないが青年期に「政治」に関与をしようとしたことへの未練と回想を込めて『明星』に書き残したのであろうか。

 しかし、回想とはいえ「関与」を明らかにしたことはそれが事実であれ過大に語ろうと、現場での実行がなくても「共謀」の意識があったという事実は避けられず事件加担者であり、閔妃その他関係者の殺害事件に責任はある。

 晶子・鉄幹研究の第一人者が刊行をしている「評伝」は歌の分析と年譜をなぞっているだけなので、この青年期の鉄幹の動向は触れられていない。鉄幹は「肉弾三勇士」を讃える歌詞が一般公募されたときにも、一般人として応募をして「当選」している。

主謀者、三浦梧桜
 三浦梧楼が京城現地における首謀者であり王妃、女官、官吏などの殺害の実行正犯であることは確かである。

 広島での予審は48人全員が免訴になっているが、その理由を述べた「予審終結決定書」の記述は奇妙である。

「事実」関係として三浦梧楼と大院君の結びつきを強調し、47人の現場での役割は曖昧のままであるが乱入した目的が三浦に「教唆」され目的が「王妃」を殺害するためと認定しているのである。

 しかし王宮乱入後の具体的行為に関しては判断を避け、「証拠が不十分」であるとし「決定書」を「まとめ」てしまうのである。

 日本政府の一部高官から圧力がかかり「免訴」の決定を出さざるを得なかったものの、三浦たちの態度があまりにも「自慢げ」に王妃殺害の関与を認めていたため「決定書」に書き残したのであろうか。しかし「誰が」と特定をしないために王宮乱入後の役割は追及されていない。

予審終結決定書の概略
 
画像転用禁止・外務省史料
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真北が上である。図では蓮池にある嶋の香遠亭 ヒャンウォンジョンHyangwonjeongに渡る酔香橋が北側に位置している。乾清宮(コンチョングン)を建てた際に池を掘り、住居である乾清宮から香遠亭へ渡るために橋をかけたわけである。現在の修復後の位置のように南側に位置するのが不自然であり、この1895年時の図のように北側に位置しているのが自然であろう。

予審廷に「起訴」された主要人物
 三浦に限らず、前述の堀口九萬一領事官補、杉村濬公使館一等書記らも日本の軍隊と連携をとり景福宮に侵入し殺害に関与をした。

 衆議院議員の柴四朗(東海散士の名で小説を発表)、民間人では熊本の国権主義者が半数近くを占め漢城新報社の社長、主筆、編集長らが関与をした。

 日本政府は関係者、その家族、従者たちを退韓処分とし憲兵の同船により広島に「護送」、広島地裁により拘引状が出され拘置監に収容された。
 
 軍人も指揮官八名が軍法会議にかけられたが「無罪」判決により放免された。朝鮮国内の非難、国際世論をかわすための見せかけの処置であった。
 
 事件の解明はされずに百年が過ぎ去り近年にようやく複数の研究が著された。
 日本は国家として解明をする責務は放棄したまま今日に至る。

 東京学芸大の教員である李修京さんの論文が「ソウル文化トゥディ」というウェブ誌にアップ。(韓国語)。
山辺健太郎講演テープ、三浦梧桜と伊藤、井上、山県の長州閥の深い関与を三浦の回想録などを基に論究。
http://www.sctoday.co.kr/news/articleView.html?idxno=2819
http://www.sctoday.co.kr/news/articleView.html?idxno=2821

 
日本人殺害加担者、あるいは実行者一覧
 民間では侵略を担った漢城新報社、記者、熊本国権党などが主体。自由党分子も参加。新政府との対立を経て帰順した国権主義者たちである。

 衆議院議員、柴四郎は戊辰戦争での敗者の側にいた。民間の「大陸浪人」と単純化させられない天皇国家とその補完の役割を為した暴漢たちであるが、中心メンバーは当時の社会的「地位」もそこそこあった。後年になり大臣になった者もいた

 前年の七月、景福宮への布告なき戦争行為、甲午農民戦争での民衆虐殺が朝鮮での侵略、戦闘行為の意識を安易にさせたのではないか。

 広島地裁予審判事吉岡義秀による「予審終結決定書」に記されている48人を記す。予審終結決定書は「明治29年1月20日」に出され全員免訴

 通し番号は決定書記載順である。
本ブログで当時の立場、職業を基準にした順番にアップの際に「決定書記載順」仕分けで資料的な意味はない。
                          
三浦梧楼 当時は公使。予備陸軍中将 華族とされている。東京 予審終結決定書29

岡本柳之助 宮内府兼軍部顧問 和歌山予審終結決定書1

浅山顕蔵 朝鮮国補佐官 長崎 予審終結決定書35

佐瀬熊鉄 医業 福島  予審終結決定書37

渋谷加藤次 内部顧問官 熊本 予審終結決定書44

大浦茂彦 通訳官 長崎 予審終結決定書45

蓮元泰丸 通訳官 滋賀  予審終結決定書46

堀口九萬一 領事官補 東京大学法学部卒業、事件後ブラジルとルーマニアで全権公使 予審終結決定書31

杉村濬 公使館一等書記 東京 予審終結決定書30

鈴木重元 新潟 予審終結決定書47

柴四郎、衆議院議員、著述業・筆名は東海散士 福島 

三浦と一緒に朝鮮にわたるハーバード大学を終えて再度ペンシルバニア大学で経済学を専攻、政治家、小説家、1892年に議員に選出 予審終結決定書2

安達謙蔵 漢城新報社長 熊本 浪人の終結担当、加藤高明内閣の逓信相、浜口内閣の内相 予審終結決定書に記載順番36

国友重章 漢城新報社主筆 熊本 漢文に造詣が深い 予審終結決定書3

小早川秀雄 漢城新報編輯長、熊本 予審終結決定書23

菊池謙譲、新聞記者 熊本『近代朝鮮史』などを著述した 予審終結決定書15

佐々木正、新聞記者 熊本  予審終結決定書16
牛島英雄 新聞記者 熊本 予審終結決定書20
宮住勇喜 新聞社員 熊本 予審終結決定書48
吉田友吉 新聞記者 岩手 予審終結決定書7
山田烈盛 新聞記者 東京 予審終結決定書14

佐々正之 熊本 朝鮮進出の事業部門を担う。予審終結決定書10
(実兄の佐々友房は関与はしていないが友房の経歴を挙げると、西南戦争、熊本隊に参加(1,200名)、1877年官軍に帰順し1880年放免、1879年同心学舎を設立し1882年済々黌と改称。
「清韓語学研究所」を併置、中国、清から教師を招聘、後に熊本国権党と改名をする紫溟会を立ち上げ参謀本部の諜報活動に協力する)

広田止善 熊本 予審終結決定書5
平山岩彦 熊本 予審終結決定書8
沢村雅夫 熊本 予審終結決定書11
片野猛雄 熊本 予審終結決定書12
隈部米吉 熊本 予審終結決定書13
前田俊蔵 熊本 農業 予審終結決定書18
家入嘉吉 熊本 予審終結決定書19
松村辰喜 熊本 小学校教員 予審終結決定書21
佐藤敬太 熊本 予審終結決定書26

寺崎泰吉 神奈川 売薬商 自由党
星亨の子分、1889年自由党の壮士団、無声館、 予審終結決定書34

中村楯雄 熊本 雑貨商 自由党 予審終結決定書24
田中賢道 熊本 農業 自由党 予審終結決定書27
平山勝熊 熊本 新聞社員 自由党 予審終結決定書28
藤勝顕  福岡 自由党 予審終結決定書6
難波春吉 神奈川 雑貨行商 自由党 予審終結決定書25
(六人の自由党壮士団の背後に法部顧問として朝鮮政府に雇用3,600円の年俸を支給されていた星亨がいた)

月成光  福岡 予審終結決定書4
大嵜正吉、宮城 予審終結決定書9
武田範治 福岡 予審終結決定書17
鈴木順見 京都 予審終結決定書22

境益太郎 外務省巡査 長崎 予審終結決定書32
白石由太郎 外務省巡査 鹿児島 予審終結決定書33
萩原秀次郎 外務省警部 長野 予審終結決定書38
渡部鷹次郎 外務省巡査 東京 予審終結決定書39
成相喜四郎 外務省巡査 鹿児島 予審終結決定書40
横尾勇太郎 外務省巡査 長崎 予審終結決定書41
小田俊光 外務省巡査 鹿児島  予審終結決定書42
木脇祐則 外務省巡査 鹿児島 予審終結決定書43

軍法会議判決
軍法会議 無罪判決 
明治29年1月14日

楠瀬幸彦 陸軍中佐、
馬屋原務本 陸軍少佐、
石森吉猶 陸軍大尉、
高松鉄太郎 陸軍大尉、
鯉登行文 陸軍大尉
村井右宗 陸軍大尉、
馬来政輔 陸軍大尉、
藤戸与三 陸軍大尉

参照文献
外務省外交史料館「韓国王妃殺害一件」
『日韓外交史料5 韓国王妃殺害事件 』 市川正明編、1981年原書房
『日本外交文書』28巻 外務省
http://www.u-gakugei.ac.jp/~skdragon/kannichi/kannichi5.html
(同論文関連文献・未見「朝鮮王妃殺害事件の再考」李修京他『東京学芸大学紀要 人文社会科学系』ISSN1880-4314、07年1月)
『日本の韓国併合』山辺健太郎 1966年 大平出版 
『帝国と暗殺』内藤千珠子 05年 新曜社 第二部スキャンダルと暗殺 第四章王妃と朝鮮 第五章 死者たち
『《朝鮮》表象の文化史』中根隆行 04年 新曜社 第四章 従軍文士の渡韓見聞録 日清・日露戦争期の朝鮮像と与謝野鉄幹「観戦詩人」
「沙上の言葉四」 与謝野鉄幹 『明星』第五巻五号 1924年10月 134頁 
「与謝野鉄幹と朝鮮」桧野秀子『季刊三千里』二八号 1981年 
『閔妃は誰に殺されたのか 見えざる日露戦争の序曲』崔文衡チェ・ムンヒョン04年彩流社《ソウル刊01年》
『朝鮮王妃殺害と日本人』金文子 09年 高文研
『評伝与謝野寛晶子明治編 新版』逸見久美07年 八木書店 歌の解釈と年譜をなぞっただけである
未見文献
『日清戦争と朝鮮』朴宗根 1982年  青木書店
第六章「三浦梧楼の赴任と明成皇后(閔妃)殺害事件」
『閔妃暗殺』角田房子 崔文衡さんは強く批判
「閔妃殺害事件の再考察」秦郁彦『政経研究』43-2 06年10月


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by 1910822 | 2010-07-26 22:08